祥雲寺

荒井郁之助・・・幕臣。官僚。
江戸湯島で幕臣 荒井清兵衛の子として誕生。漢学、儒学など習い、昌平坂学問所に入学する。その他に書道、剣弓馬術や蘭学を修め軍艦操練所教授に就任する。
のち軍艦操練所頭取、講武所頭取、歩兵頭並と歴任し、慶応4年(1868年)1月に軍艦頭に就任し、榎本武揚らと軍艦で江戸を脱出し宮古湾海戦、箱館戦争と転戦する。
降伏後は獄中で「英和対訳辞書」を完成させ、明治5年(1872年)許され開拓使仮学校心得に就任。
明治10年(1877年)内務省地理局に入り気象学を研究し、明治23年(1890年)初代中央気象台長となった。
天保7年(1836年)4月29日誕生。明治42年(1909年)7月19日死去。

黒田長義・・・秋月藩11代藩主。
10代藩主 黒田長元の六男として生まれ、万延元年(1860年)8月26日に父の隠居により11代藩主に就任。14歳で家督を継いだが、16歳で病死した。
弘化2年(1845年)2月10日誕生。文久2年(1862年)1月26日死去。

大給恒・・・奥殿藩(竜岡藩)8代藩主。政治家。官僚。
奥殿藩7代藩主 松平乗利の長男として誕生し、嘉永5年(1852年)父の隠居により8代藩主に就任。若年寄、陸軍奉行、老中、陸軍総裁など幕府の要職を歴任する。
慶応4年(1868年)陸軍総裁と老中を辞任し松平から大給に改姓して帰国し謹慎する。明治2年(1869年)版籍奉還により竜岡藩知事となり、明治4年(1871年)廃藩により免職となる。
元老院議員、賞勲局副総裁、貴族院議員などを歴任し、枢密顧問官を亡くなるまで務めた。明治10年(1877年)には発起人として日本赤十字社の前身となる博愛社を創設している。
天保10年(1839年)11月13日誕生。明治43年(1910年)1月6日死去。

大山綱介・・・薩摩藩。外務省。
薩摩国加世田村で生まれ、明治8年(1875年)に外務省へ出仕。明治10年(1877年)の西南戦争では警視として西郷軍の説得を試みる。
その後、イタリア公使館、外務省と務め、明治32年(1899年)駐イタリア公使に就任。駐在中に妻の久子がプッチーニの蝶々夫人制作に協力している。
嘉永6年(1853年)1月22日誕生。明治44年(1911年)8月21日死去。

安部信発・・・岡部藩(半原藩)13代藩主。
六浦藩7代藩主 米倉昌寿の九男として生まれ、岡部藩12代藩主 安部信宝の末期養子となり13代藩主に就任。
元治元年(1864年)天狗党の乱鎮圧で武功を挙げ、元治2年(1865年)には日光祭礼奉行を務めた。
慶応4年(1868年)3月に上洛して新政府へ恭順を示し、三河国半原への藩庁移転を願い出て許可される。
明治2年(1869年)版籍奉還により半原藩知事となり、明治4年(1871年)廃藩置県で免職となる。
弘化2年(1846年)12月19日誕生。明治28年(1895年)9月6日死去。

浜野定四郎・・・教育者。初代慶応義塾塾長。
中津藩士 浜野覚三の子として誕生。元治元年(1864年)福澤諭吉に同行して上京し慶應義塾に入塾した。
卒業後は慶應義塾の教員となり、明治7年(1874年)から明治11年(1878年)まで中津市学校校長を務めた他は一貫して慶応義塾で教鞭をとった。
明治14年(1881年)1月に初代慶應義塾長に就任。その後も会計建築長、会計主任、理事委員、評議員などを歴任し明治41年(1908年)に退職した。
弘化2年(1845年)誕生。明治42年(1909年)11月14日死去。

有馬頼咸・・・久留米藩11代藩主。
久留米藩9代藩主 有馬頼徳の七男として誕生。弘化3年(1846年)兄の10代藩主 有馬頼永の養子となり、11代藩主に就任。
家臣団では尊王攘夷派と公武合体派が激しく対立していたが、洋式軍制改革や藩校改革が進められた。
慶応3年(1867年)の大政奉還により尊王攘夷派が政権を握り、公武合体派への弾圧が始まる。明治2年(1869年)版籍奉還により久留米藩知事に就任。
明治3年(1870年)久留米藩士が参加した二卿事件と藩難事件により江戸藩邸が接収され謹慎処分となり、明治4年(1871年)廃藩置県により藩知事を免官となる。
文政11年(1828年)7月17日誕生。明治14年(1881年)5月21日死去。

藩難九志士之墓・・・明治2年(1869年)3月17日に起きた吹上藩斬奸事件で家老を殺傷した9名の墓。

住所 東京都渋谷区広尾5丁目1−21
地図
荒井郁之助 荒井郁之助
荒井郁之助の碑
黒田長義 黒田長義
大給恒 大給恒
大山綱介 大山綱介
安部信発 安部信発 左面
安部信発 右面 安部信発
浜野定四郎 浜野定四郎
有馬頼咸 有馬頼咸 墓誌
有馬家墓所 藩難九志士之墓
祥雲寺