三宝寺

水口市松・・・新選組隊士。
津藩を脱藩し上京。新選組所属の友人に会いに壬生屯所へ遊びに来ていた縁で元治元年(1864年)に入隊。
六番組、七番組と所属し、慶応3年(1867年)幕臣取り立ての際には見廻組御雇格となる。
慶応4年(1868年)1月5日、鳥羽伏見の戦いで淀で戦死。
文政7年(1824年)誕生。慶応4年(1868年)1月5日戦死。

今城重子・・・女官。
今城定章の娘。千種有文の義妹。嘉永元年(1848年)に内侍雇として出仕。
安政5年(1858年)3月14日に岩倉具視が提出した意見書「神州万歳堅策」は今城重子が内奏したとされる。
万延元年(1860年)に従五位下少将内侍となる。
文久元年(1861年)和宮降嫁を朝廷内で堀川紀子と共に推進したとして尊攘派に四奸二嬪の一人として排斥され、文久2年(1862年)に閉居謹慎。文久3年(1863年)に落飾。
明治元年に許され旧位となる。
文政11年(1828年)9月16日誕生。明治34年7月18日死去。

住所 京都府京都市右京区鳴滝松本町32
地図
   水口市松 供養塔 水口市松 供養塔   
今城重子 今城重子 裏面
今城重子 三宝寺
三宝寺 案内 安藤利次 左面