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地図城之内古戦場   近藤弥右エ門埋葬處・戊辰役戦死者合葬塔  軍卒合葬塔

戊辰の役 城之内古戦場





明治元年(1868) 戊辰戦争

二本松藩は、同盟軍である三春藩の謀叛を予知して、三春藩境界に警備兵を出した。

その中に樽井克己を隊長とする三番組約百二十名があった。

七月九日に至って樽井克己は、糠沢村名主登那木次郎左エ門家を本陣とさだめ、その後、八幡台より桜池に及ぶ約四粁に、大胸壁を農民の応援を頼みもせずに築き、布陣の上敵兵を待っていた。

対する西軍の棚倉支隊が、板垣退助を長として、降伏した三春藩に入ったのは七月二十六日で、渡辺清左エ門(後の県知事渡辺清)を長とする山道軍の入場は二十七日の事であった。

連合軍の板垣隊は、必ずしも優れた兵団ではなかったらしく、上之内戦争は、指揮者の計画ではなく、薩摩と土佐兵による独断の攻撃であったらしい。勿論、戦果の報告もされていない。

二十六日、三春に入った薩摩軍は、この夜、三春藩の申し出によって、上之内に、二本松藩兵が駐屯していることを知らされた。

薩五番隊の藩に対する報告文書には「・・・・城下より二三里許之有候糠沢村と申処賊徒二百人許屯集の由尤も此村より、二本松領にて直様当夜攻撃に決定いたし我藩は二・四・六番隊なり、外に土州の人数二小隊位も候や当夜七ツ時分三春城を繰出し進撃仕候・・・・」とあり、土佐藩主の家記には、「・・・・藩兵と共に松沢に至る小監察別府大石監之薩兵本道よりし我兵間道よりす・・・・」とある。

防ぐ樽井隊は、農民を含めて、約二百名。その半数を石堂邑に配し、残る兵を以って、この地(城之内)の防備に充てた。

二十七日午前四時に三春を発した薩兵の二・四・六番隊は、何らの抵抗もなく、未明には、上之内に到着し、樽井隊の本陣をU字型に包囲するかのような陣形で攻撃を始めた。その兵数は数百名とある。(登那木家家譜)

加うるに、薩兵は最新型のスペンサー床尾弾巣七連銃を持っていたと想像されるから、兵数の比に数倍する火力であったろう。

また、薩四番隊は、払暁戦名をはせた川村隊である。

この払暁戦は、先遺隊を信頼していた樽井克己にすれば、全くの不覚であった。

午前六時頃、西軍の一斉攻撃を受けた二本松藩兵は、周章狼狽のうちにも直ちに応戦したが、兵力の差は如何ともなし難く、遂に、大惨敗を喫するに至った。

この戦況を樽井克己の手記には、「・・・・二十七日絶えて諸道の報告なく、二十七日夜将に明けんとす大小砲声山谷に響き敵兵我を囲む事不意に出づ殆ど苦戦に及ぶ暫時奮戦して兵を引揚ぐ・・・・」とある。

間道伝えの土佐兵は、この合戦には間に合わなかったらしい。

二本松少年隊の田中三治・中村久次郎・岩本清次郎の戦死や日高荘之亟を感激せしめた青山泰四郎・和田悦蔵の果敢な切込みがあったのは、この合戦である。

丹羽家(二本松藩主)略歴に「西軍払暁封内糠沢を襲撃守兵塵殺さる。」とあり、白沢村郷土誌には、「兵火に罹りし家屋登那木氏外三十二戸死傷六十名」と書いてある。

二本松藩の戦死者は五十五名(内一人は婦人)とあるが、薩五番隊の報告には「賊徒の死骸六十人之有り在家惣て放火致し四つ時分・・・・帰陣仕候」とある。

二本松藩の敗残兵は、二十八日朝までに、城下光現寺に集合を命ぜられたが、死傷者や四散した士が多く、集合したのは僅かに十七名であったというから、いかに激しく惨たらしい戦争であったか想像されるだろう。

霞ヶ城(二本松城)の攻防は、道義のため、藩をあげて城を枕に殉じた戊辰戦争唯一の非情の戦争であって、その緒戦が糠沢上之内の戦争であった。そうした意味で、小規模の合戦とはいい、ここ上之内の戦争の意義は深く、且つ大きい物を感ずる。



明治元年七月二十七日 糠沢村戦没者名簿

360石 神田権之助
200石 城田平太夫
150石 平松彦太夫
120石 木滝万次郎
80石  三浦治部右エ門
80石  神谷正介
70石  笠間一之進
80石  池田伝兵衛
70石  丹羽来助
65石  近藤弥右エ門
四人扶持 山岡紋太
四人扶持 栗生庄司
三人扶持 和田悦蔵
二人扶持 城田荘兵衛
二人扶持 三沢十二郎
二人扶持 玉木実
二人扶持 長岡与三郎
二人扶持 岩本清次郎
二人扶持 岡村護蔵
二人扶持 遠藤貞治
     田中三治
     中村久治郎
二人扶持 鈴木嘉兵ヱ
二人扶持 菅野今朝松
二人扶持 渡辺順蔵
樽井弥五左エ門抱 壱岐紋之介
只野村 宗七
内木幡村 忠太郎
上川崎村 治郎兵ヱ
下長折村 嘉右エ門
福原村 寅吉

裏塩沢村 弥三郎
東神殿村 善五郎
糠沢村 利右エ門
青田村 遠藤勘之亟
本宮南町 市太郎
糠沢村 五兵ヱ
玉井村 惣七
長屋村 源右エ門
白岩村 三浦藤助
白岩村 兵左エ門
白岩村 安左エ門
福原村 磯吉
白岩村 加藤儀作
白岩村 善作
白岩村 わき(林右エ門妻)
大槻村 甚之助
只野村 弥次右エ門
富田村 孫次
糠沢村 長右エ門
白岩村 徳松
鍋山村 甚蔵
糠沢村 利右エ門(同名異人)
糠沢村 市之介
糠沢村 新介

(出典:紺野庫治 記、上之内古戦場保存会・白沢村教育委員会編集のパンフレットより)