伊牟田尚平誕生地

伊牟田尚平・・・薩摩藩士。喜入領主の陪臣。
弘化3年(1846年)鹿児島城下で、島津斉彬の侍医・東郷泰玄に医学を修め、のち長崎で蘭学を習得。
安政元年(1854年)江戸で塩谷宕陰や安井息軒に師事し儒学を学ぶ。鹿児島に帰国後の安政3年(1856年)兄 熊太郎の病死により家督を継ぐ。
安政4年(1857年)脱藩して京都に向かい清川八郎や田中河内介らと交わり勤王運動に参加。
安政5年(1858年)安政の大獄が起こり幕府の追及を逃れて逃亡。安政6年(1859年)鹿児島に帰藩し謹慎となる。
安政7年(1860年)国老 関山糺に随行して江戸の情勢視察に向かう。江戸では「虎尾の会」に名を連らね清川八郎らと交わる。
万延元年(1860年)12月4日アメリカ総領事の秘書兼通訳であったヘンリー・ヒュースケンを暗殺し川越や水戸に潜伏。
後に京都へ行き田中河内介らと義挙を計画し九州へ向かう。肥後や福岡を説得するために訪れたが福岡藩主 黒田斉溥は危険であるとして伊牟田を薩摩に送る。
薩摩では喜界島に流罪となり、元治元年(1864年)に許されて種子島に渡り私塾を開く。その後、召喚されて京都へ行き、西郷隆盛の元で討幕運動を行う。
慶応3年(1867年)西郷隆盛の命により江戸三田藩邸で江戸幕府を挑発する為に浪人組織を作り、江戸城二の丸への放火や関東錯乱などを行う。
同年12月25日、幕府により江戸三田藩邸の焼討事件が起き、相楽総三らと逃亡し赤報隊を組織する。
慶応4年(1868年)召喚令を受け隊と京都へ向かい、6月に北越征討軍に編入する事となっていたが、6月15日に近江長浜の豪商 今津屋弥十郎の家に強盗に入り6月24日に捕縛となる。
明治2年7月19日、強盗傷害、殺人、脱藩の罪で斬罪となる。
天保3年(1832年)5月25日誕生。明治2年7月19日死去。

住所 鹿児島県鹿児島市喜入町5841
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伊牟田尚平 案内 伊牟田尚平誕生地