医学院跡



薩摩藩主島津重豪(島津氏第25代)は、開化的なせいさくを掲げて人材育成に力を注ぎ、藩校造士館・演武館に続いて、
翌年の1774(安永3)年、その南西隣(国道の向い側)の地に医学院を創設した。
医学院は江戸の医学館に準じた学規八略を定め、医書の講習・討論などにより医師の要請と薬草研究などによる医療の進歩を目指した。
希望する城下士、地方に住む郷士や足軽、町人も入学を許可され、七人前後の講師のもとで数十人から百人ほどの医生が学んだ。
敷地内には同時に医薬・農業祖神とされる神農像を祭る神農廟も同時に併設された。
重豪は薬草栽培を奨励し山川、佐多、吉野(鹿児島市)薬園の経営や本草学(博物学)などの書物出版にもチアkらを注ぎ医療の発展に貢献した。
さらに重豪は1779(安永8)年、医学院近くの南東の地に天体観測や暦作成に携わる明時館(別称天文館)を創設し、これが繁華街天文館の名のおこりとなった。

【現地案内板より】

住所 鹿児島県鹿児島市山下町4−18(中央公園)
    地図

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