伏見土佐藩邸跡

寛文10(1670)年の「山城国伏見街並近郊図」に「南浜三丁」とあり、その東部に松平土佐守屋敷と記されています。
この屋敷は土佐藩邸のことで「伏見大概記」には土佐藩は塩屋町で3軒分、南浜町で1軒分の町役を負担していたことから、塩屋町での役割が高かったといえます。
町役とは物や労働力を負担することで税金のひとつ。南浜町の藩邸には藩主や正室・側室・腰元らの生活をする「御殿」はなく、家臣の生活や労働の場であったと考えられます。
このあたりには幕府の公用や船着き場に関連した人や物資の輸送を担った伏見伝馬所がありました。
また、木津屋与左衛門や大津屋小兵衛宅などが本陣として利用され、その周辺には旅籠が並んでいました。
慶応4(1868)年の鳥羽伏見の戦いで土佐藩兵は警備についてはいましたが藩主 山内容堂は「このたびの戦争は薩摩・長州と会津・桑名の私闘であるから、沙汰をするまでは戦争に加わることを禁止する」と告げていました。
しかし、藩大目付の板垣退助は「京都で事が起これば、黙って薩摩と行動を共にせよ」と、密命を出していました。
藩士の一部は藩主の命令を無視して参戦、徳川軍が敗退したので、土佐藩主は「復古討賊に大功あり」として、朝廷から称賛をされました。
【現地案内板より】

住所 京都府京都市伏見区南浜町248−4
地図
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伏見土佐藩邸跡