伏見長州藩邸跡

長州藩の藩祖は毛利輝元でその父、元就は豊臣秀吉に仕えた名高い戦国武将。その領地は中国地方の大半を占めていました。
伏見城造営当初の藩邸は「豊公伏見ノ図」や中井家所蔵の「伏見城絵図」によれば城下の西の端、大名屋敷の一角と毛利橋の東に「毛利長門守」の屋敷が記されています。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで輝元は西軍の大将として参戦して敗戦。
徳川家康は戦争責任を問い輝元を隠居させ、その子、秀就に周防と長門の2国、現在の山口県を与えました。
江戸時代中期の元禄12(1699)年の「御香宮文書」には中書島の新地開発を許可されたことが記されており、この時期以降に藩邸がこの場所に移転してきたと考えられます。
この辺りと三栖向町の間には船大工町があり、船や船具製造に従事する人びとが暮らしていました。屋敷地は通りに面して町家が建ち並び、藩邸がその奥にあるような形態をしていました。
幕末の元治元(1864)7月19日未明、長州藩家老の福原越後はここ伏見長州藩邸から武装した約500名の兵とともに、京へ進軍しようとしました。
その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵と衝突、禁門の変が勃発しました。
福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立ち戻り、態勢を整えて打って出ましたが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃、このため伏見長州藩邸は焼け落ちてしまいました。
【現地案内板より】

住所 京都府京都市伏見区表町578
地図
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伏見長州藩邸跡