普門院



小栗上野介忠順が慶応4年(1868年)上野国群馬郡権田村に転居する途中で立ち寄った小栗家の菩提寺。
小栗上野介忠順の小姓 銀之介が普門院に処刑後の首を届け首塚が建てられている。

小栗忠順・・・幕臣。
小栗忠高の長男として生まれ、安政2年(1855年)家督を継ぎ目付となる。
万延元年(1860年)遺米使節として日米修好通商条約の批准書交換の為に渡米。小栗忠順は通貨の交換比率の交渉を行ったが合意には至らなかった。同年11月8日、外国奉行に就任。
文久2年(1862年)3月9日、小姓組番頭。同年6月5日勘定奉行に就任。閏8月、勘定奉行と江戸南町奉行を兼務。12月歩兵奉行と勘定奉行、講武所御用取扱を兼務。
文久3年(1863年)4月23日、勘定奉行、歩兵奉行、講武所御用取扱を辞任。同年7月10日、陸軍奉行に就任。
元治元年(1864年)8月13日、勘定奉行に異動。同年12月18日、軍艦奉行に異動。
元治2年(1865年)1月横須賀製鉄所御用掛としてフランスと製鉄所建設の契約締結。同年2月21日、軍艦奉行を辞任。慶応元年(1865年)5月4日、勘定奉行に就任。
慶応2年(1866年)兵庫商社設立の建議書を幕府に提出し同年6月5日に兵庫商社を設立する。「商社」は小栗忠順が訳した言葉とされている。同年8月11日勘定奉行と海軍奉行を兼務。
慶応3年(1867年)12月28日、陸軍奉行を兼務。
慶応4年(1868年)1月12日鳥羽伏見の戦いから江戸に帰って来た将軍 徳川慶喜に徹底抗戦を主張。同年1月15日、陸軍奉行と勘定奉行を罷免。同年1月28日上野国群馬郡権田村への土着願を申し出、同年3月権田村に転居。同年閏4月4日官軍に捕縛され同年閏4月6日取り調べも無いままに斬首された。
文政10年(1827年)誕生。慶応4年(1868年)閏4月6日死去。

牧義制・・・幕臣。
弘化2年(1845年)12月6日から嘉永2年(1849年)10月8日まで火付盗賊改。後に小普請奉行。
嘉永3年(1850年)11月29日から長崎奉行となり、嘉永4年(1851年)10月にアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を取り調べた。
嘉永6年(1853年)4月28日西留守居に就任。
享和元年(1801年)誕生。嘉永6年(1853年)8月7日死去。

住所 埼玉県さいたま市大宮区大成町2丁目402
地図


小栗忠順 小栗家墓所
小栗家 案内 小栗上野介招魂碑
 小栗上野介 案内 小栗上野介忠順に海軍から送られた大砲 
 小栗上野介忠順に海軍から送られた錨 小栗上野介忠順に海軍から送られた水雷 
牧義制 牧義制 左面
牧義制 裏面 牧義制 右面
牧家墓所 普門院