藤田東湖生誕の地

水戸藩第9代の藩主 徳川斉昭(烈公)を助けて藩政改革に尽力し、また「弘道館記」の草案を書き「弘道館述義」等を著して、
藩校弘道館の弘道館の創設に大きな足跡を残した側用人藤田東湖(名は彪)が文化3年(1806年)3月16日、父幽谷の長男として生まれたのが、この地であった。
ここは寛政8年(1796年)父幽谷の代に藩から与えられた屋敷地で敷地内には私塾青藍舎があり、東湖はそこで父から学問を受けて成長しまた、
江戸へ出て剣術や槍術の修行なども積んだ。
この地は昭和26年藤田家から水戸市に寄贈され、現在はみと好文カレッジの敷地となっているが「藤田東湖生誕の地」碑と東湖産湯の井戸跡が残されている。
【現地案内板より】

藤田東湖・・・水戸藩士。
水戸学者である父 藤田幽谷に学問を学び文政10年(1827年)に家督を相続。進物番となった後、彰考館史館編集、彰考館総裁代役などを歴任。
天保元年(1830年)郡奉行となり民政を担当する。天保11年(1840年)に側用人として藩政に参与する。
弘化元年(1844年)藩主 徳川斉昭が幕府より隠居謹慎処分となり藤田東湖も失脚し幽閉処分となる。
嘉永5年(1852年)幽閉処分が解かれ嘉永6年(1853年)徳川斉昭が海防参与として幕政に復帰すると藤田東湖も江戸幕府海岸防禦御用掛として徳川斉昭の補佐役となる。
安政元年(1854年)側用人に再就任。安政2年(1855年)10月2日に安政の大地震に遭い母親を助け倒壊した家屋の下敷きになり圧死する。
「回天詩史」「弘道館記述義」「正気歌」「常陸帯」などを署し多くの志士に影響を与えた。
文化3年(1806年)3月16日誕生。安政2年(1855年)10月2日死去。

住所 茨城県水戸市梅香1丁目2−15
地図
藤田東湖 藤田東湖
藤田東湖生誕の地碑 産湯の井戸跡
藤田東湖生誕の地 案内 藤田東湖生誕の地