長福寺

元治元年(1864年)3月尊攘派は藤田小四郎を中心に筑波山に挙兵 (筑波勢)これに対して水戸藩では重臣市川三左衛門らが弘道館の学生と(諸生党)結び5月藩内抗争へと移行することになった。
幕府は宇都宮藩をはじめ近隣の20余藩に筑波勢の鎮静を要請した。水戸藩主徳川慶篤は、名代として宍戸藩主松平頼徳を騒乱鎮圧の為、向わせる(大発勢)
8月20日、那珂湊の湊御殿へ向かう途中長福寺に陣を置き翌日磯浜海防陣屋に向け出発した。その後9月4日幕府目付高木宮内ら追討軍800余名が駐屯したといわれている。
9月16日林正徳ら潮来勢300余名が島田の香取明神に入ったので長福寺より800余名を繰出し大砲や小銃を連発し激しい戦いになった。
その後も小泉方面でも戦いは繰り広げられた。9月26日松平頼徳は捕らえられ処刑されたが1ヶ月の戦闘の後10月23日大発勢1100余名が長福寺の幕府本営に投降する。
長福寺境内には追討軍4名隊士の墓があり今も静かに 眠っている。
【現地案内版より】

木村有輔・・・松平左門組御持小筒組指図役。元治元年(1864年)10月18日茨城郡小泉村で戦死。行年28歳。
筑波屋栄八・・・江戸芝湊町十七番組人宿嘉兵衛寄子。元治元年(1864年)10月18日小泉村で戦死。行年36歳。
平蔵・・・大久保兵庫兵賦。野州利根郡岩室村出身。元治元年(1864年)9月23日島田村で戦死。行年27歳。
松山與兵衛・・・安藤弘三郎兵賦。江州伊香郡西安寺出身。元治元年(1864年)9月19日平戸村で戦死。行年36歳。

住所 茨城県水戸市塩崎町1135
地図
木村有輔 木村有輔 右面
木村有輔 左面 筑波屋栄八
筑波屋栄八 左面 筑波屋栄八 右面
平蔵 平蔵 左面
平蔵 右面 松山與兵衛
松山與兵衛 左面 松山與兵衛 右面
幕府追討軍隊士の墓 長福寺 案内
長福寺