別保墓地

杉浦重文・・・膳所藩儒。膳所藩校 遵義堂教授。杉浦重剛の父。漢学、経学を修め遵義堂教授となり、膳所藩勘定役を兼務。維新後は滋賀県に勤め地租改正事務などを担当。
        晩年は遵義学校を開いて子弟の教授にあたる。
        文政6年(1823年)誕生。明治32年11月18日死去。
杉浦重剛・・・膳所藩句読方。教育者。思想家。膳所藩儒杉浦重文の次男。6歳の時に膳所藩校 遵義堂に入校。
        遵義堂について「予の精神は之を坦堂先生(高橋正功)に受け、学問は之を麹盧先生(黒田麹盧)に受け、識見は之を月洲先生(岩垣月洲)に受けた」と後述している。
        15歳で膳所藩より貢進生に選ばれ東京の大学南校で学ぶ。明治9年御前講演に選ばれ明治天皇に理化学実験を披露する。
        明治9年から明治13年までイギリスに留学。帰国後、文部省と東京大学に勤務。明治22年、文部省を辞め日本倶楽部に参加し、大隈重信の不平等条約改正案に反対する。
        小石川区議員になり、明治23年衆議院議員総選挙に当選。明治24年に辞職。
        後に東京文学院を設立し、以後も國學院学監、東亜同文書院院長、東宮御学問所御用掛などを歴任。
        迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)の御進講役を務め、宮中某重大事件の際は山縣有朋に対抗した。
        安政2年(1855年)3月3日誕生。 大正13年2月13日腎臓炎で病死。

住所 滋賀県大津市富士見台11−17 周辺
    地図
杉浦重文 杉浦重文 左面
杉浦重剛 杉浦家墓所