梅窓院
青山幸宜・・・郡上藩7代藩主。実業家。政治家。
6代藩主 青山幸哉の長男として誕生。文久3年(1863年)父の死去により7代藩主に就任。
佐幕派であったが慶応4年(1868年)2月に新政府へ恭順した。佐幕派の家臣は凌霜隊を結成し、脱藩して会津藩と共に新政府軍と戦った。
明治2年(1869年)版籍奉還により郡上藩知事となり、明治4年(1871年)廃藩置県で免職となる。
明治17年(1884年)7月8日、子爵を授けられ、日本印刷社長、岩倉鉄道学校理事を務めた。
明治23年(1890年)貴族院子爵議員となり5期務め、その後に赤坂区会議員、東京市会議員を務めた。
嘉永7年(1855年)11月20日誕生。昭和5年(1930年)2月6日死去。
竹内玄同・・・医師。
大聖寺藩医 竹内玄立の二男として誕生。丸岡藩医であった叔父の家を継ぎ、長崎の鳴滝塾でシーボルトからオランダ医学を学んだ。
安政5年(1858年)伊東玄朴らと協力して、お玉が池種痘所を設立。同年7月7日、将軍徳川家定の急病に際し幕府医師に抜擢され法眼に叙せられた。
文久2年(1862年)12月16日、法印に昇叙し渭川院と号した。
文化2年(1805年)誕生。明治13年(1880年)1月12日死去。
平松時厚・・・公家。官僚。政治家。
少納言 平松時言の長男として誕生。元治元年(1864年)禁門の変で長州藩に加担し慶応3年(1867年)1月まで参朝停止処分を受ける。
慶応4年(1868年)戊辰戦争では大坂へ出陣し軍事書記役と軍監を務め2月に参与となった。
明治2年(1869年)7月に宮内権大丞となり、明治3年(1870年)6月に新潟県知事(のち県令)に就任し、明治5年(1872年)5月まで務める。
その後は宮内省、太政官、内務省、司法省などで多様な官職を歴任し、明治23年(1890年)6月に元老院議官となり、7月に貴族院子爵議員に当選し死去まで在任した。
弘化2年(1845年)9月11日誕生。明治44年(1911年)8月22日死去。
住所 東京都港区南青山2-26-38
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青山幸宜 |
竹内玄同の墓 |
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| 竹内玄同の碑 |
竹内玄同の墓と碑 |
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| 平松時厚の墓 |
平松時厚の墓 右面 |
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| 平松時厚の墓 |
梅窓院 |
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