旭ヶ丘公園

間秀矩歌碑・・・「くにのため 死におくれとる 老いの身は 書の林に すてむとぞ思う」秀矩作者の五代、間半兵衛秀矩は酒造業山半十八屋の主、22歳で家を継ぎ中津川宿の問屋と年寄役とを兼務し、
          幕末平田門人になり郷土における尊王思想家の一人として東西に活躍。明治新政府に召しだされ神祇官に就く。明治4年(1871年)に病を得て帰宅、
          養生の効なく同9年1月23日に55歳で死去。明治18年生前の功により神祇権少教正の職位が追贈された事を6代元矩が記念し13年祭に当る明治22年祥月を繰り下げ、
          実りの秋9月23日この碑を建てました。小説「夜明け前」には秀矩は蜂屋香蔵また姉婿 馬島靖庵は宮川寛斎の名で描出されています。【現地案内板より】

馬風句碑・・・「菊折て すててまた折る 山路かな」馬風は美濃以哉派中津川の四世宗匠の俳名で、旅籠田丸屋十代目の主、名を肥田九郎兵衛通光といい、中津川宿最後の庄屋を勤めた。
        かたわら俳諧をよくし門人も多く自らは平田門人になり市岡殷政、間秀矩らと共に水戸浪士横田元綱の首埋葬および東山道軍の先導隊にも加わり、明治13年(1880年)67歳で死去。
        雅言通光大人とおくり名され、その3年祭に当る明治15年(1882年)5月29日に馬風の三男 菅井守之助、馬良こと菅井蠖ら親族門人一同によって、この句碑が建てられました。
        なお馬風は「中津川にその人有りと知られた、小野三郎兵衛」の名で小説「夜明け前」に登場しております。【現地案内板より】

𡈽衛歌碑(市岡殷政歌碑)・・・朝日の岡の公園を拓きたる時に 七十五叟 𡈽衛 「真木たてる あら山中を 香細しき 花の園生と なしたるやたれ」
                  歌詞は公園が開設された明治20年(1887年)に旭ヶ丘と名付けて詠んだもので𡈽衛は雅号、名を市岡長右衛門殷政といい、のち正蔵と改め中津川宿本陣最後の主、
                  また平田門人で幕末から明治初期に渉り郷土の長老として多くの業績を残し明治21年(1888年)8月24日76歳で死去。小説「夜明け前」には浅見景蔵の名で登場。
                  なお勤王の女傑 松尾たせ子は従妹になります。ちなみに前田青邨画伯は殷政、秀矩の肖像画に「郷土の先覚」と題して昭和22年の院展に出品されました。【現地案内板より】

間元矩碑・・・間半兵衛元矩が詠じた歌詞を取り入れ七代 間鷲郎が親族一同に図り父の三年祭に当る明治27年(1894年)8月26日に建てた顕彰碑であります。
        山半の六代目を継いだ元矩は中津川の戸長を8年、初代町長を2年、約10年にわたり町村の行政を担い当公園を開いた中の一人であり園内に父 秀矩碑、𡈽衛碑を建てたのち、
        49歳の若さで世を去りました。扁額は天神碑と同じ中納言菅原為栄の書であり撰文を認めたのは熱田神宮の大宮司 角田忠行であります。
        忠行は小説「夜明け前」に暮田正香の名で登場し、その行動を島崎藤村が詳しく伝えております。【現地案内板より】

住所 岐阜県中津川市中津川1078−6 周辺
地図
間秀矩歌碑 間秀矩歌碑
間秀矩歌碑 案内 馬風句碑
馬風句碑 馬風句碑 案内
𡈽衛歌碑(市岡殷政歌碑) 𡈽衛歌碑(市岡殷政歌碑)
𡈽衛歌碑(市岡殷政歌碑) 案内 間元矩碑
間元矩碑 案内 間秀矩
間秀矩